宗教は世界に平和をもたらすか?

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自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - チェ・サンウ

2011/09/17 (Sat) 22:54:48

仏教では自因自果、つまり自分の行いは自分に返ると説きます。

一方、キリスト教はイエス・キリストが自分の罪の為に十字架にかかったと説くので、自因他果だと思います。

その他、他因自果、他因自果とありますが、どれが一番建設的でしょうか?

僕は少なくとも、自因自果を説く宗教・思想が一番建設的だと思っています。

他因自果の場合は、自分に悪い結果が返ってきた場合、原因を他人に求めて反省がありません。他因他果は他人のやった行いが別の他人に返るので、もう訳が分かりません。

自因他果の場合は、自分がやった悪い行いが他人に返った場合、反省があれば建設的です。

しかし、自分がやった悪い行いが他人に返るという安心感から、悪い行いにためらいが無くなる危険があります。

北上君のコメントです。統一原理ではAVを見たらダメらしいです。だから、統一原理は信じたくない・・・。

>でも、祝福を受けるときにその罪が帳消しになるという安心感から、アダルトビデオは、ほぼ毎日見ている。

結局、統一原理では、北上君がAVを見た罪を祝福が償っているのです。統一原理もAVを見たらダメなら、AVを見た罪を見た本人が償うように説くべきです。

だから、罪の所在に関しては、自因他果、他因他果を解く統一原理より、自因自果を解く仏教の方が説得力があると思います。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - エイドリアン

2011/09/18 (Sun) 14:11:45

現実的には4通りともあると思います。

自分のお金を無駄遣いして自分のお金が無くなったら自因自果、
他人にお金を盗まれて自分のお金が無くなったら他因自果、
自分がお金を盗んで他人のお金が無くなったら自因他果、
他人が他人のお金を盗んだら他因他果です。

お金を盗んで逮捕されるのも自因自果です。


我欲よりも良心が勝れば、他人を害する行為をしようとは思いませんが、
良心よりも我欲が勝れば、自分の利益のために他人を害してしまいます。

そういうことを無くすために、他人に善をなせば自分にも善が帰ってき、他人に悪をなせば自分にも悪が帰ってくる、あるいは、善をなせば天国に行き、悪をなせば地獄に行く、といった自因自果の教えがされてきたのだと思います。


自分の不幸を他人のせいにしても何も変わりませんし、多人が自分を幸福にしてくれるのを待っていても仕方がないので、自分の行動によって不幸を減らし幸福を手に入れるしかありませんから、自因自果の考えが一番建設的だとは思います。


しかし、自因自果は本当に必ず成り立つのでしょうか?

善人が苦難の人生を歩み非業の死を遂げることもありますし、悪人が贅沢三昧して楽しく暮らしていることもありますし、死後のことは誰にも分かりません。

むしろ、このような不条理を説明するために、前世のカルマとか、先祖の因縁とか、天国や地獄というものが想像で作り出されたのではないかと思います。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - チェ・サンウ

2011/09/19 (Mon) 00:37:00

エイドリアンさん

>自分の不幸を他人のせいにしても何も変わりませんし、多人数が自分を幸福にしてくれるのを待っていても仕方がないので、自分の行動によって不幸を減らし幸福を手に入れるしかありませんから、自因自果の考えが一番建設的だとは思います。

ありがとうございます。我々は良い結果が返ってきた時は自因自果を受け入れがちですが、悪い結果が返ってきた時は他因自果になりがちです。どんな結果が返ってきても自因自果を受け入れられるようになれればいいですね。

>しかし、自因自果は本当に必ず成り立つのでしょうか?

確かに、客観的には分からないから、信じるか信じないかの問題になるような気もしています。自因自果、他因自果も信じた結果が建設的かどうかのような気もしています。

>善人が苦難の人生を歩み非業の死を遂げることもありますし、悪人が贅沢三昧して楽しく暮らしていることもありますし、死後のことは誰にも分かりません。
むしろ、このような不条理を説明するために、前世のカルマとか、先祖の因縁とか、天国や地獄というものが想像で作り出されたのではないかと思います。

確かに、善人が不幸になったり、悪人が幸福になるようなこともあります。仏教では、ここでいう善人・悪人は相対的なもので人間は悪人であると説いています。そして、人間が悪人であることを強調した宗派が浄土真宗だと思っています。悪人正機。

現在の幸不幸に、前世の行いが影響しているように説いている宗派もあります。初期仏教では、現世の行いが来世に影響するようなことが説かれていました。でも、現在、自分の身の回りに起きる出来事と過去世での行いとの関係は読み取れませんでした。勉強不足かも?

少なくとも初期仏教では、現在の幸不幸は、心の持ちよう、出来事に対する捉え方に依存すると説いています。

>善人が苦難の人生を歩み非業の死を遂げることもありますし

このことも、苦難の人生、非業の死をどのように捉えるかで、幸不幸が決まると説いています。確かに、苦難の人生、非業の死を遂げることがあるのなら、原因が前世のカルマであろうが、先祖の因縁であろうが苦難の人生、非業の死は事実です。

苦難の人生に対しては、人生そのものを「苦」と説いています。だから、どんな苦難でも起きて当たり前の事であると。「非業の死」もどんな死に方をしようが、我々は無常の存在でいつかは死にます。

これらの事は事実だけど、やっぱり、「苦難の人生」は歩みたくないし、「非業の死」は遂げたくありません。だから、苦難に遭った時は、少なくとも人生は苦であることを自覚して、そして、その苦難を避けたい自分を自覚するようにしています。

サライさん、ENOCKさん

統一原理では、苦難の人生、非業の死に対して、どのように対処するべきと説いているのか教えてください。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - サライ

2011/09/19 (Mon) 07:02:27

>統一原理では、苦難の人生、非業の死に対して、どのように対処するべきと説いているのか教えてください。

「感謝」です

怨みを持たず、「許せ・愛せ・一つになれ」という教えです。


統一原理では肉体のある地上の人生は、瞬きをするほんの一瞬だと言います。
しかし、その瞬間の地上での生き方が霊界での永遠の生を決定してしまうという死生観です。

感謝して越えていくことによって、より良い霊界での人生が約束されると考えれば良いと思います。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - チェ・サンウ

2011/09/19 (Mon) 21:55:19

サライさん

ありがとうございます。

>「感謝」です
怨みを持たず、「許せ・愛せ・一つになれ」という教えです。
>統一原理では肉体のある地上の人生は、瞬きをするほんの一瞬だと言います。
しかし、その瞬間の地上での生き方が霊界での永遠の生を決定してしまうという死生観です。
感謝して越えていくことによって、より良い霊界での人生が約束されると考えれば良いと思います。

霊界での永遠の生、良い霊界での人生とは、客観性が無いため、信じるか信じないかの問題ですね。でも、これらを信じることによって感謝できるようになるならば、信じた結果が建設的と言えます。

でも、客観性が無いものは信じないという人もいます。信じる人にとっては建設的だけど、信じない人にとっては建設的とは言えません。この点で、現統一原理の死生観は建設的ではないと思います。やっぱり、統一原理から信じるか信じないかの要素は排除するべきだと思います。

信じるか信じないかの要素があるから、変な信じ方をして「摂理の為の犯罪、殺人は善」って言うおかしな信者が出てくるのだと思います。

初期仏教では、感謝できない時、許せない時、愛せない時、1つになれない時は、無理に感謝したり許そうとはしないで、感謝できない自分、許せない自分を内省して自覚しなさいと説きます。この内省と自覚から、感謝できない原因が見出されて感謝できるようになるのです。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - サライ

2011/09/20 (Tue) 08:26:30

>初期仏教では、感謝できない時、許せない時、愛せない時、1つになれない時は、無理に感謝したり許そうとはしないで、感謝できない自分、許せない自分を内省して自覚しなさいと説きます。この内省と自覚から、感謝できない原因が見出されて感謝できるようになるのです。


「感謝できない原因」とは具体的にどのようなものを言うのでしょうか?

上記の感謝するプロセス(自覚すること)は当然我々にもあります、そこを超えていくために聖書・み言・イエス・真の父母の生涯路程を学ぶ意味がありま、そしてその土台の上に「祈り」というものを重要視します。またそれでも難しい時は「牧会」と言う助けを求めます。

これこそが我々の信仰生活の基本中の基本です。

教会では「感謝できない」という言葉はよく聞く言葉です。
正直に告白することは前進する兆しでもありますね。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - チェ・サンウ

2011/09/20 (Tue) 23:48:56

サライさん

>「感謝できない原因」とは具体的にどのようなものを言うのでしょうか?

感謝できない原因は、突き詰めると執着です。例えば、嫌いな人から施しを受けた場合、感謝できないのは、その人が嫌いという信念に執着するからです。

また、施しを受けて当たり前という信念が感謝を妨げる場合もあります。

>上記の感謝するプロセス(自覚すること)は当然我々にもあります、そこを超えていくために聖書・み言・イエス・真の父母の生涯路程を学ぶ意味がありま、そしてその土台の上に「祈り」というものを重要視します。またそれでも難しい時は「牧会」と言う助けを求めます。

感謝するために聖書・み言・イエス・真の父母の生涯路程を学ぶということですが、この中で聖書とイエスを学ぶことが、逆に感謝を妨げているのではないでしょうか?

旧約聖書の神は、ユダヤ民族に反発する民族を滅ぼせと言っています。殺される民族にとってはたまったものではありません。旧約聖書から「摂理の為の殺人は善」という発想が導かれるのだと思います。それに、創世記を読むとアダムしかいない時に、神が「善悪の実を取って食べてはいけない」と言っているので、善悪の実を食べたことがセックスをしたとは解釈できません。そもそも、旧約聖書では人間と動物が作られた順番が、創世記の1章と2章で違っています。聖書を神の啓示とすると、こんな2枚舌の神様は信用できません。聖書を学ぶことが逆に感謝を妨げているのではないでしょうか?

イエスを教えているから、自分と意見の合わない者を、「腰抜けサタン」、「魔」、「小娘」という信者が出てくるのだと思います。マタイによる福音書第七章で、イエスはこんな寝言を言っています。

>聖なるものを犬に与えてはならない.またあなたの真珠を豚の前に投げてはならない.彼らがそれを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことがないためである。

聖なるものとは真理の事を指しているのでしょう。イエスの戯言が真理とは思えませんが。

ここで、犬、豚とは誰の事でしょう?おそらく反対する者だと思います。反対する者をサタン、魔、小娘と揶揄する統一信者と同じですね。そもそも、イエスを教えているから統一原理を間違えて解釈する信者が出てくるのだと思います。

文鮮明氏は会ったことが無いからどんな人か分からないし、反対派連中の間ではとんでもない人となってるけど、少なくともサライさんとENOCKさんが信じる文鮮明氏はイエスの再臨ではないと思います。霊感商法等の問題を起こす信者は統一原理を間違えて解釈しているということですが、そもそもの話、文鮮明氏をイエスの再臨と解釈することが統一原理の誤った解釈なのではないでしょうか?

反対派連中の文鮮明氏像は、文鮮明氏がイエスの再臨ならば納得行きます。それに、原理講論で予言しているメシヤとはイエスの再臨の事ですよね。そもそも聖書がデタラメだから、原理講論の記述と実際の文鮮明氏の生い立ちに食い違いが出てくるのだと思います。

聖書やイエスを学ぶより、初期仏教の本やお釈迦様の教えを学んだ方が建設的です。そして、初期仏教は、転生輪廻のような証明不可能な要素を信じる必要はないので、信じる人しか救われないキリスト教より建設的です。

>教会では「感謝できない」という言葉はよく聞く言葉です。
正直に告白することは前進する兆しでもありますね。

感謝できない心を告白することは、自分の心の状態を言語化することですね。感謝できない原因が分からなくても、言葉にして、はじめて気付くことがあります。自分の心の状態を告白することを、神様に聞いてもらおうなんて妄想はやめて、自分の心の状態を言語化して自己内省を促進させることを目的にしてみたらどうでしょうか?

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - サライ

2011/09/22 (Thu) 06:28:57

原理では「時」と言うことを重要視しています。

神様の啓示の漸進性を受け入れます。
人間の知性と霊性に合わせて神様は漸次啓示するというものです。

タルムードなどは、サンウさんの主張の極めつけのような差別主義の教えですが、現在では世界の多くの人に受け入れがたい内容に違いありません。


また、原理講論には聖書をどのように読むべきか随所に書かれています。


これは、人間の責任が果たさなければ神の理想は実現しないという原理の摂理史観に立脚しています。


また、時間と同様に、空間的にも中心と周辺という考え方をします。中心国家(摂理国家)と周辺国家があり、中心人物と周辺人物(アベル・カイン)があります。

このような切り口(観点)で聖書や歴史的背景を見ていくので、一見二枚舌のように見えますが、原理を学んだ立場からみればそれなりに納得がいっているんです。


だから、今の統一教会の混乱もある意味必要だと言っている食口も多く見受けられます。私もその一人ですが。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - チェ・サンウ

2011/09/22 (Thu) 21:27:16

サライさん

>また、原理講論には聖書をどのように読むべきか随所に書かれています。

それでは、神の殺人命令、イエスの妄言、イエスが反対する人を蛇の子、蝮の子、豚と罵っている所の読み方も解説しているのですか?創世記の1章と2章では、人間と動物が作られた順番が違うことは、どのように読めばいいのですか?

原理講論には間違いがあるといいますが、もしかしたら、聖書の読み方を解説している点が、その間違った点だと思います。聖書なんてデタラメです。だから、現段階の統一原理では話になりませんが、サライさんとENOCKさんが信じるというか、原理解釈でも聖書の正しい読み方は難しいと思います。

もしかしたら、本来の統一原理は聖書なんてお粗末な代物の読み方を解説しているのではなく、あらゆる宗教・思想の良い点をアレンジするための中心となる宗教だったのではないかと思います。だから、名前も「統一原理」と考えれば、「なるほど」と思います。統一原理もキリスト教、聖書を離れて仏教等の建設的な思想をアレンジするべきだと思います。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - サライ

2011/09/23 (Fri) 07:37:54

>仏教等の建設的な思想をアレンジ

天地正教はご存知ですか?

弥勒の再来を中心に仏教をアレンジしています

お経だってあります。

とにかく、婦人達が爆発的に伝道されました


私としては仏教アレンジは既に通り過ぎたことであろうと思っています。


今、関心があるのは儒教です。

しかし、儒教は教団を中心とした仏教やキリスト教と違い北東アジア圏に深く根付いていて宗教という枠組みになじまないような感じです。その歴史も、守備範囲も、かなり広く、私のようなボンクラ頭じゃ把握しきれません。

その歴史を見れば興味深いことも沢山出てきますし、原理と合致する部分はキリスト教以上かも知れません。

中央集権国家VS宗族共同体の歴史が何千年もかけて中国大陸で繰り広げられきました。理想世界の青写真のヒントが見つかりそうです。



Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - エイドリアン

2011/09/23 (Fri) 16:00:47

サライさん

天地正教は統一原理なのですか?

どのような教義なのか概略だけでもご存じですか?

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - チェ・サンウ

2011/09/23 (Fri) 21:11:35

サライさん

>天地正教はご存知ですか?

詳しいことは分かりませんが、名前は聞いたことがあります。

>弥勒の再来を中心に仏教をアレンジしています
お経だってあります。
とにかく、婦人達が爆発的に伝道されました
私としては仏教アレンジは既に通り過ぎたことであろうと思っています。

弥勒は初期仏教には無かったということです。次の文の原始仏教とは、初期仏教を指します。

>大乗仏教には、「大日如来」や「阿弥陀仏」というような神的存在者の思想、「浄土」の思想、「常住なるもの」の思想、、「罪」の思想、「弥勒菩薩」の思想など、もともと原始仏教にはなかった思想が、数々混入しています。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto02.htm

初期仏教の長老も、著書の中で日本の仏教は、一神教の神に似た変なものを作り出したと言っています。

http://fanblogs.jp/wintersonata/archive/5/0

現在、統一原理を間違えて解釈する信者がいるように、天地正教も仏教を間違えて解釈しているのだと思います。だから、仏教アレンジはまだ終わってないと思います。

それに日本の仏教は、キリスト教の影響を受けているということです。

>このように大乗仏教には、「大日如来」や「阿弥陀仏」というような神的存在者の思想、「浄土」の思想、「常住なるもの」の思想、、「罪」の思想、「弥勒菩薩」の思想など、もともと原始仏教にはなかった思想が、数々混入しています。
 これらの思想は、キリスト教の知識を持っている人ならだれでもすぐわかるように、キリスト教の思想に、あまりによく似ています。実際、仏教史学の権威エリザベス・ゴードン女史は、例えば弥勒菩薩について、その語源を調べた結果、
「(弥勒の原語である)インドのマイトレィアは、中国ではミレフ、日本ではミロクで、これはヘブル語のメシア、ギリシャ語のキリストである」
 と結論しています。ヘブル語の「メシア」が、インドでは「マイトレィア」、中国では「ミレフ」、日本では「ミロク」となったのです。

だから、初期仏教的に事実を客観的に観察する場合もあれば、キリスト教のように妄想を信じることを勧めている理由もはっきりしました。初期仏教では転生輪廻が唯一の信じるか信じないかの問題ですが、信じなくても実践できます。

確かに宗教をアレンジするという点では、日本の仏教は、初期仏教をベースにキリスト教をアレンジしていると言えます。でも、アレンジするならキリスト教の長所をアレンジするべきなのに、日本の仏教がアレンジしている点は妄想部分で長所をアレンジしているとは言えません。そもそもキリスト教には長所が無いとか。キリスト教は全否定するべきではないと思いますが、長所が見えてきません。

サライさん、ENOCKさんとの議論から統一原理の長所は少し見えてきましたが、キリスト教の長所は見えてきません。こんなものは虐げられたユダヤ民族が自分たちを優位な民族と思いたくて考えだした妄想で、取るに足りません。取るに足らない・・・。キリスト教を言い表すのに便利な言葉ですね。キリスト教は人間観察が甘いです。

>今、関心があるのは儒教です。
しかし、儒教は教団を中心とした仏教やキリスト教と違い北東アジア圏に深く根付いていて宗教という枠組みになじまないような感じです。その歴史も、守備範囲も、かなり広く、私のようなボンクラ頭じゃ把握しきれません。
その歴史を見れば興味深いことも沢山出てきますし、原理と合致する部分はキリスト教以上かも知れません。
中央集権国家VS宗族共同体の歴史が何千年もかけて中国大陸で繰り広げられきました。理想世界の青写真のヒントが見つかりそうです。

儒教は、統一教会が霊感商法等の問題を起こさないようにする上で重要な宗教だと思います。

北上君と韓定食さんの議論では、文鮮明氏が生まれた時、文家は儒教の家庭で儒教徒の家庭に誕生した文鮮明氏はメシヤではないというのが韓定食さんの主張だったと思います。

原理講論の記述と矛盾するからということですが、原理講論の事は良く分かりません。原理講論の記述はどのようになっているのですか?

ここで、メシヤをイエスの再臨とすれば、文鮮明氏は妄言者の再臨になります。だから、統一原理を信じる人にとっては、文鮮明氏がイエスの再臨であることを否定されて良かったと思います。

以前は、反対派のクリスチャンに気を使って、イエスをメシヤとして、文鮮明氏はイエスの再臨ではないという主張に合わせていました。でも、文鮮明氏がイエスの再臨であることを否定したことは、逆に統一教会の味方をしていたということですね。文鮮明氏を妄言者の再臨としておいた方が反対派にとっては都合が良いです。

でも、「良いものは良い。悪いものは悪い。」の精神から、統一教会が問題を起こさないならば、何も言いません。信教の自由です。

確か、文亨進氏が「統一教会は仏教だ」と言ったらしいので、儒教は仏教とともに統一教会が問題を起こさなくなるために重要な宗教だと思います。少なくともキリスト教をベースにしている間は、統一原理はデタラメのままで、問題も起きると思います。

反対派に、「統一原理はデタラメだ!」と言われる理由には、霊感商法等の問題もありますが、キリスト教がデタラメということもありそうです。

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - サライ

2011/09/24 (Sat) 06:39:41

エイドリアンさん

天地正教の前身は川瀬カヨ教祖(霊能者)を中心とした小さな教団でした。
しかし、教祖が文先生をメシヤとして受け入れ、教団ごと再臨主に捧げ、統一教会と宗教法人格を維持しつつ融合しました。キリスト教が分からない日本人に対する、ある意味方便的宗教団体として発展しました。

当然その教えも、仏教の教学経験があった食口たちによって仏教的アレンジがされていきます。

知り合いの元食口の人をつてに「円和講」という教学本を探してもらってはいかがでしょうか?、上、中、下級と三冊あります。

原理のポイントが仏教的に書かれています。
例)

授受作用⇒先授後受の法
サタン ⇒魔
終末  ⇒末法


教祖が亡くなり二代目になって雲行きが怪しくなり、分裂し解散しました。


現在の統一教会の教勢の半数はこの流れからの婦人ではないかと思います。田舎は特に多いと思います。



チェ・サンウさん

以前、東京で生活していたころ、東大の大学院で社会学の勉強をしに来ていた韓国の留学生に原理講論を読んでもらったことがあります。そのときの彼の感想は「これは儒教の要素が沢山入っている」というものでした。

私はそれまで儒教にあまり関心がなかったのですが、実際勉強してみれば、原理講論は儒教をキリスト教的にアレンジしているのではないか?と思うようになりました。


最近、世界情勢を見ていて思うのが儒教文化圏の興隆とキリスト教文化圏衰退です。
その、盛衰のポイントが日本ということになろうかと思います。
このようなことは、文先生のみ言ではずいぶん前からあるのですが、最近特に痛感します。

今年の秋は大艱難が来るという予言がいたるところで出てきていますが、文先生も同様なことを言われています。
外的な災害や経済危機以上に精神的艱難の到来を予感します。

日本政府の「精神」はどこにあるのでしょうか?
みんなどうしていいか分からないのです。

また、統一教会の内部においても同様です。

たぶんあらゆる組織、団体、企業のなかで同様の事態が起きていると思います。


私は今、相場を毎日気にせざるを得ない仕事をしています。
先行き真っ暗ですね。
日本人の生活基盤事態が何の確証もない砂上の楼閣であり、いつ崩れてもおかしくない状況にあることを感じます。

最近話題に上る土砂ダム。その原因である「深層崩壊」

「深層崩壊」・・・

外的災害や危機を契機として、精神の「深層崩壊」現象があちこちで起こってくると思います。


皆さんとの交流が、単に知的満足に終わることなく、「深層崩壊」に対処する方法を模索できる良き意見交換になることを切に望みます。



Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - チェ・サンウ

2011/09/24 (Sat) 23:03:08

サライさん

>私はそれまで儒教にあまり関心がなかったのですが、実際勉強してみれば、原理講論は儒教をキリスト教的にアレンジしているのではないか?と思うようになりました。

統一原理を間違えて解釈している信者は、その儒教的な所が読み取れてないのではないでしょうか?北上君のサイトで、焼いも君は、文鮮明氏がイエスの再臨と間違えて解釈した発言をしています。

「文師は、イエスの再臨!!南北分断は、キリスト教がイエスの再臨を受け入れずにアベル、カインに分断されただけ、それ以前は、同じ朝鮮半島だったのだから、イエスの再臨に相違ない!!あくまでも違うと言い張るのなら、文師以上の功績と実績を提示したらどうですか?凡人以下の悪人ほど聖人を貶すと歴史が証明してますね。」

山いも君が、自ら文鮮明氏を「妄言者の再臨」と言って否定しているのです。イエスは反対する人を、蛇の子、蝮の子と罵ったり、自分の教えを信じない者を犬、豚と揶揄しています。

マタイによる福音書第七章です。

>聖なるものを犬に与えてはならない.またあなたの真珠を豚の前に投げてはならない.彼らがそれを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことがないためである。

聖なるものとは自分の教えの事でしょう。自分の教えを理解しない人を犬、豚なんて北上君レベルですね。北上君のコメントです。

>どこの大学を出ようが、統一原理を理解しない人は頭が悪いです。

さらに、マタイによる福音書第二十三章です。

>蛇よ! まむしの子らよ! どうしてゲヘナの裁きを免れることができようか?

北上君のサイトにおける山いも君のコメントです。

>チェ・サンウ さんや韓定食さんの子孫は、お気の毒です。

イエスを信じない人はゲヘナに裁かれて、長いも君に賛同しないと子孫が不幸になるのですね。結局、イエスは北上君、長いも君と同レベルです。だから、焼いも君の次の発言は、文鮮明氏をメシヤではないと言っていることになります。

>文師は、隣国、韓国までもがイエスの再臨と認めつつあります。

文鮮明氏がイエスの再臨なら、妄言者の再臨になるので、長いも君は、自分で文鮮明氏はメシヤではないと言っています。

韓国では文鮮明氏は妄言者の再臨なのですか?でも、サライさんとENOCKさんのコメントからは、文鮮明氏が妄言者のようには読めません。さらに、マルコによる福音書第十六章におけるイエスの妄言です。

>イエスは彼らに言われた、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。」

福音とは自分の教えの事でしょう。福音は証明不可能で信じるか信じないかの問題です。結局、自分の教えを信じる者は救われて、信じない者は罪に定められるとは、自分の教えを信じるように脅迫しているように読めます。結局、イエスは、自分の教えに自身が無いため、信じるない人は罪に定められると脅迫しているように読めます。

次の寝言も負け惜しみですね。

>わたしが真理を語るのに、なぜあなたがたはわたしを信じないのか?

イエスが語ることのどこが真理なのでしょう?そんな妄言は真理とは言えません。でも、感じたものが真理なら、ただ単にイエスが真理と感じただけで、他の人が真理と感じるわけではありません。次の発言も、何が何でも信じさせようと見苦しいですね。

>わたしを信じなさい.わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる.しかし、もし信じないなら、わざそのものによって信じなさい。

結局、イエスは、「神を信じなさい」としか言ってないように思えます。キリスト教も、ただ単に神を信じなさいと言ってるだけなのではないでしょうか?それに対して仏教も、転生輪廻は信じるか信じないかの問題です。でも、お釈迦様は転生輪廻を信じない人がいることを考慮して、転生輪廻を信じなくても救われるように説きました。お釈迦様のイエスバージョンの発言です。

>転生輪廻を信じる者は救われて、信じない者は永遠に輪廻の輪を彷徨うだろう

こんなことは仏教の本の中では見たことありませんが、イエス・キリストなら言いそうです。イエスよりお釈迦様の方が説得力があります。

エイドリアンさんへの返答だけど横レスします。

>当然その教えも、仏教の教学経験があった食口たちによって仏教的アレンジがされていきます。

仏教をアレンジしているのなら、天地正教の教えは実証不可能なものを信じなくても実践できるのですか?もしそうなら、エイドリアンさんの掲示板における「神の存在を前提としない統一原理について 」のスレの答えは、天地正教にあるのではないでしょうか?

http://adrian2011.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7390375

Re: 自因自果、他因自果、自因他果、他因他果のどれが建設的か? - エイドリアン

2011/09/25 (Sun) 02:20:07

>現在の統一教会の教勢の半数はこの流れからの婦人ではないかと思います。田舎は特に多いと思います。

そうなんですか。

その婦人たちは、最初は弥勒の再臨を教えられていたのですよね。でも今は文鮮明氏をメシアの再臨として教えられて信仰しているのでしょうか?

まあ、サンウさんも言っているように弥勒信仰もメシア信仰も起源はつながってますし、似たようなものといえばそうです。

弥勒信仰はヨーロッパではミトラ教として広まっていました。クリスマスの起源もミトラ教の冬至の祭だと言われています。

統一教会の教義にはキリスト教だけでなく儒教や陰陽思想の影響も見られるとは昔からよく言いますね。

浄土宗もキリスト教(景教)の影響を受けて生まれたとよく言われていますし、マニ教も、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・仏教・道教を統合した宗教だと言われています。

現代の新興宗教はキリスト教と仏教の両方から影響を受けて教義を構成しているものも多いです。オウム真理教も幸福の科学もそうですから、こうしたことは統一教会の専売特許ではありませんね。

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