宗教は世界に平和をもたらすか?

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妄信と通常の信仰の境は? - サライ

2011/01/31 (Mon) 06:45:22

チェサンウさん紹介の本
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉

のレビューからの引用です。

>著者は宗教家だ。彼が批判しているのは「宗教そのもの」ではなく「宗教に隠れた人間の愚かさ」である。

 考えてみると有史以降 現在に至るまで 人間は宗教と共に歩んできた。

 宗教によって救われた人もたくさんいるだろうが 宗教に滅ぼされた人も膨大な数になっているはずだ。その宗教の両義性を踏まえない限り 僕らは 依然として お釈迦様の手の平の上にいるとしか言えない。しかも そこで時に殺し合いまでやっているわけだから 本当に「救い」がないとしか言いようがない。

 21世紀は宗教の時代だ。「宗教の時代」という意味は「人間が宗教をどう扱うのか」という意味である。

========

>「人間が宗教をどう扱うのか」
これはとても興味ある命題です

宗教を扱う人間をどうみるか?

例えば四大聖人と言われる、イエス、釈迦、孔子、マホメットという開祖と、その後に生まれた人間達(我々)

どちらがより正当で、平和をもたらす思想を持っているか?と言う問いと同じではないだろうか?

宗教という客観的な存在は、はっきりいえば形はない、ほとんどが、その偉大な思想家の言葉から出発しているが、その言葉をどのように受け取るか?という開祖当時の師弟関係から今日にいたるまで続いてきた「問い」ある。

このことを少し議論できればいかなと思いスレッド立ててみました。

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - チェ・サンウ

2011/02/02 (Wed) 23:31:04

サライさん

テーマの提供ありがとうございます。良いテーマですね。まさにこのサイトのテーマを反映してます。

>「人間が宗教をどう扱うのか」
これはとても興味ある命題です
宗教を扱う人間をどうみるか?
例えば四大聖人と言われる、イエス、釈迦、孔子、マホメットという開祖と、その後に生まれた人間達(我々)
どちらがより正当で、平和をもたらす思想を持っているか?と言う問いと同じではないだろうか?
宗教という客観的な存在は、はっきりいえば形はない、ほとんどが、その偉大な思想家の言葉から出発しているが、その言葉をどのように受け取るか?という開祖当時の師弟関係から今日にいたるまで続いてきた「問い」ある。
このことを少し議論できればいかなと思いスレッド立ててみました。

これに関して小泉吉宏著、「ブタのいどころ」に次のような場面があります。あくまでフィクションだけど、イワシの頭が神様で、ブタは宗教の信者です。

>愛と寛容を説きイワシの頭を崇める宗教の信者は自分がバカにされても怒ることは無かった。
>だが、イワシの頭をバカにされると怒り始めた。
>神や団体と一体化すると自我が消えた気がして心は楽になるが、自我は神や団体にすり替わっているだけ。
>自分を見つめることなく神や教義の奴隷になるブタは案外多い。楽な道だからだ。

http://fanblogs.jp/wintersonata/archive/13/0

結局ここで言いたいことは、自分がバカにされても怒らないけど自分が信じる宗教をバカにされると怒ると言う意味です。統一協会で言うなら信者本人が悪口を言われても怒らないけど、「統一原理はデタラメだ!」とか文鮮明氏の悪口を言われると怒ると言う意味です。

僕は特別な宗教は信じてないし初期仏教の悪口を言われても怒らないから当てはまらないような気もしますが、自分の信念などでどこかが当てはまっているような気もします。

神や教義の奴隷になることが盲信です。現在の統一協会の霊感商法の問題も自分を見つめることなく神や教義の奴隷になっていることが原因ではないでしょうか?

自分を見つめることを、僕はよく「内省」と表現します。内省は仏教から学べます。サライさんとENOCKさんが初期仏教を、統一原理にアレンジして統一協会内に広めれば、霊感商法の問題はなくなると思います。

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - サライ

2011/02/09 (Wed) 07:28:36

「妄信」と「盲信」違いがよく分かりませんがこの変にカギがあるかも知れません。

>神や教義の奴隷になることが盲信です。

われわれは、生まれてから親や家族、友人や教師、社会や環境などから一つの価値観を得て生活しています。

例えば、私の子供を見てみた場合、生まれた時から教会の儀式習慣のなかで生きています。礼拝や真の父母に敬礼することは当たり前で、疑問はありません。今後社会に出て行ったときに様々な葛藤が生じるでしょうが、生活と信仰は乖離しません。最初から一つの価値観で生きています。
まだ祝福は受けていませんが、二世同士でうければ同じ価値観で生きていくわけです。

我々一世のように原理に出会うまでは違う価値観で生きてきたものが、新しい価値観を注入されれば

「神や教義の奴隷になること」の理解はできるでしょうけれど生まれながら一つの教団に属するものたちにとっては、例えば神を捨て信じなくなることがあるとすれば、神がいないという盲信になるのではないでしょうか?

意識せず、なんとなく生活している背景にある価値観、考え方、容易に変わるとしてもそれなりに信念があるとすれば、それも一つの盲信ではないでしょうか?

極端な例では共産主義社会です、北朝鮮で見てきた子供たち若い女性達は当たり前のように、生き生きと生きていました。しかし外の真実の世界を見た時、苦しさに耐えられないとき亡命という手段がなされる。

人間は苦しい時、理想に燃える時、どこかに自己実現の世界があると思って冒険を試みます。
しかし、行ってみると満足できない・・これが歴史を通してみる人間の真実の姿であり、現在生きている我々の姿ではないでしょうか?

私の現時点での結論ですが
外(自分以外)の場所や価値観、考え方に究極の答えがあるのではなく。自分内にみつけるべき「信仰」「幸福」これが通常で、
外に見出そうとする「信仰」「幸福」を妄信というのではないかと思います。

そういう意味で、原理が偽物であれば遠からず自分自身の中で自己崩壊していくのではないかと思います。

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - チェ・サンウ

2011/02/09 (Wed) 23:26:08

サライさん

>「妄信」と「盲信」違いがよく分かりませんがこの変にカギがあるかも知れません。

「妄信」、「盲信」とは言われたことを鵜呑みにすることを言います。
「妄信」も「盲信」も意味は大して変わらないようです。

http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%A6%84%E4%BF%A1&fr=dic&stype=prefix

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E7%9B%B2%E4%BF%A1

少なくとも霊感商法に偽を唱えている点で、サライさんは盲信ではないと思います。やっぱり、盲信にならないようにするには初期仏教をアレンジするしかないと思います。

盲信は確かにキーワードです。僕も統一協会が霊感商法等の問題を起こさなければ何も言いません。

初期仏教的には、人間は執着心の塊です。自分が真理と感じた教えに執着します。僕は初期仏教に執着して、サライさんは統一原理に執着してますね。ただ、初期仏教は初期仏教に執着するなと教えていると思うし、サライさんは統一原理に他の思想等の良い点をアレンジしようとしているから厳密な意味での執着とは言えないと思います。

例えば、統一原理が批判にさらされた時は、批判内容を客観的に観察してそれが正しかろうが的外れだろうが、統一原理に執着してもいいです。でも、ここで「自分は統一原理が捨てられないんだなあ。平和な世界の為に・・・」と執着している自分を認識すれば盲信にはならないと思います。多分ここで内省をしないで、やみくもに信じ続けようとするからパラノイア状態になるのだと思います。

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - サライ

2011/02/11 (Fri) 04:43:19

きのうレスしたのに反映されていないのでもう一度

>内省

内省する 主体的な「自我」はなんだと思いますか?


自分を俯瞰する「別の自分」が内省をしていると思いますが。


サンウさんはどう考えていますか?


自分が正常か否かを判断する自分って何?

初期仏教も自分自身を「みよ!」と言っているようですが、みている側の自分に対しての解説はあるのでしょうか?

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - サライ

2011/02/14 (Mon) 18:04:32

面白い記事を見つけました


▼創価学会や念仏阿弥陀や神道は因果律を理解した宗教なのか?
ところがキリスト教や誤った認識の仏教などでもそうだが、天国と地獄とが永遠に乖離している二元論の宗教では悪の転換は不可能なのだ。そこでは、悪は別世界に追いやるか、隠すか、創価学会の戸田城聖氏が言ったように、サタンは死刑にせよということになってくる。そこには生命の因果律を無視した考え方があるとしか考えられない。これは仏教をキリスト教的に思考して、原爆を使用した者はサタンとして捉え、すべて例外無しに死刑にせよとの宣言を創価学会の青年部員へ遺訓として残したといわれている。

そこが仏教以外のキリスト教や新道もそうだが因果律を隠す阿弥陀如来の念仏信仰などと、本来の正しい仏教との決定的に異なるところなのだ。善悪の二元論の宗教を推し進めると、一方が一方を抹殺する聖戦の戦いしかない。そういう悲劇的な誤った世界認識を是正する仏教の正しい変革理論が必要である。

http://www.janjanblog.com/archives/9132
より引用


これは、ことばや表現の仕方は違うけれど、原理の主張と一致している思います。

サンウさんどう思いますか?

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - チェ・サンウ

2011/02/15 (Tue) 00:56:40

サライさん

>内省する 主体的な「自我」はなんだと思いますか?
自分を俯瞰する「別の自分」が内省をしていると思いますが。
サンウさんはどう考えていますか?
自分が正常か否かを判断する自分って何?
初期仏教も自分自身を「みよ!」と言っているようですが、みている側の自分に対しての解説はあるのでしょうか?

すみません。漠然と「内省」という言葉を使っていました。内省する主体的な自我も分かりません。勉強しておきます。でも、こうやって言われると、自分を内省するとは、具体的に怒っていたら怒っている自分を自覚することです。「あ~、自分は怒ってるんだな~」って感じで。ここで、なんで怒っているのかも分析できるのが理想です。

>面白い記事を見つけました
これは、ことばや表現の仕方は違うけれど、原理の主張と一致している思います。
サンウさんどう思いますか?

サライさんが原理の主張と一致していると言っても、信者ごとに統一原理の解釈が異なっているからサライさんだけの解釈かもしれません。しかし、統一協会全体で、サライさんの解釈で一致すれば霊感商法等の問題はなくなると思います。

そもそも、統一協会をキリスト教とするところに間違いがあったと思います。文亨進氏が「統一協会はキリスト教ではなく仏教」と言ったそうですね。この発言は正しいと思います。旧約聖書も新約聖書もデタラメだからサライさんが真じる統一原理がキリスト教なわけがありません。今まで統一原理はデタラメだと思っていましたが、サライさんのコメントを読むとそうでもないような気もしてきました。

僕は神様の存在は基本的には「いるかどうかは分からない」という立場を取りますが、時には「信じる人の心の中にはいる」という言い方をします。サライさんがこうして仏教について語っているのは、サライさんが信じる神様が「統一原理は仏教だ」と言っているのかもしれません。それに、かんごさんは仏教に詳しいので、かんごさんとの出会いも本来の統一原理が仏教だからかもしれません。

そもそも、旧約聖書では神様が殺人を肯定しているのです。以下は旧約聖書の言葉です。

>あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテ人、ギルガ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人と、ヒビ人、およびエブス人、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。(申命記7章1~2節)

アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人にとっては残虐な神様です。彼らはこんな神様はいらないと言うと思います。

>ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。(申命記20章10~17節)

男は殺して女は自由にできるなんて、ユダヤ民族の男にとっては都合のいい神様ですね。

>七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金、銀、銅器、鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民はときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした。(ヨシュア記6章16~21節)

「摂理の為の殺人は善」ってどこかで聞いたことがありますね。そもそもこの発想は原理講論以前に旧約聖書から来ていると思います。

>主はヨシュアに言われた。「おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す。(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。(ヨシュア記8章1~26節)

アイの人たちにとって、自分たちを殺せと命じる神様は残酷な神様です。

>ヨシュアは命じた。「洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ。」彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対しては主はこのようになさるのである。」ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた。(ヨシュア記10章22~26節)

敵の首を踏みつける神様です。

>ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣を持って町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。(中略)主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、二日目には占領し、剣を持って町の住民を全て撃ち、リブナと全く同じようにした。(中略)ヨシュアは全イスラエルを率いてラキシュから更にエグロンへ向かい、陣を敷いてこれと戦い、その日のうちに占領し、剣を持って町を撃ち、全住民をその日のうちに滅ぼし尽くし、ラキシュと同じようにした。(中略)ヨシュアはさらに、全イスラエルを率いてエグロンからヘブロンへ上り、これと戦って、占領し、剣をもって王と町全体を撃ち、全住民を一人も残さず、エグロンと同じようにした。かれはその町とその全住民を滅ぼし尽くした。(中略)ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息のある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。(中略)ヨシュアがただの一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕えることが出来たのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。(中略)これらの町々のぶんどり品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは何一つなかった。(ヨシュア記10章29節~11章15節)

エホバの証人のおっちゃんが勧誘に来た時に、これらのことを指摘したら、400年前にユダヤ民族が住んでいた土地だから、取り返すのは当然だそうです。これに対して隣の家の土地に自分の先祖が400年前に住んでいたから返せと言うのはおかしいと指摘しました。

ここで、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人等はユダヤ民族が当時争っていた民族だと思います。自分たちの敵を殺せとは都合がいいことが書かれてますね。このことから、旧約聖書は当時他民族と争っていたユダヤ民族の妄想と考えることができます。そして、イエス・キリストも妄想が予言した妄言者です。イエスの妄言です。

>それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
また、あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイによる福音書第 19章)

>まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添え与えられるであろう。(マタイによる福音書第6章)

>しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(マタイによる福音書第12章)

神の国、神の霊とは何でしょう?「証明してください」と言いたいです。さらにイエスは反対する律法学者、パリサイ人にこのようなことを言っています。

>蛇よ、蝮の子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。(マタイによる福音書 第 23章)

この文を改良します。

>サタンどもよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。

反対する人をサタン呼ばわりするのはどこかで聞いたことがありますね。だから、ENOCKさんの理想の文鮮明氏はイエスの再臨なわけがありません。

http://choisangwoo.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3681463

むしろお釈迦様の再臨と言った方がいいと思います。お釈迦様は事実を客観的に観察することを主張しました。それに対してイエスは、「神の国」、「神の霊」などと証明不可能な妄言を吐き、挙句の果てには反対する律法学者を蛇、蝮の子呼ばわりです。文亨進氏が「統一協会はキリスト教ではなく仏教」と言ったのはキリスト教がデタラメで、統一協会をキリスト教とするところに間違いがあったと悟っていたからなのかもしれません。

ちなみに、これらの事をある反対牧師に指摘したら、「全然的外れ」って言って、「回答してもまた的外れな質問が来るから一々付き合ってられない」って言われました。でも、相手に的外れと言う場合は、何が的なのかを明確にする必要がありますが、的さえも明確にしませんでした。

某掲示板における統一信者と同じですね。僕も統一信者に似たようなことを言われたことがあります。そもそも、統一原理をキリスト教とするところに間違いがあったと思います。

統一協会でやっている反対牧師対策もキリスト教を否定すればいいと思います。統一原理は仏教だから、キリスト教を否定しても統一原理を否定することにはならないと思います。

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - サライ

2011/02/16 (Wed) 07:27:18

>そもそも、統一協会をキリスト教とするところに間違いがあったと思います。

原理はイエスをメシアとし、その再降臨が文先生とします。
ですから、キリスト教を背景としないといけない事情が歴史的にありました。本来クリスチャンを基盤として再臨主は立つべきでした、そうであれば原理講論も統一教会もいらなかったのです。
二次的三次的発展の結果です。
熱心なクリスチャンや牧師などはデタラメと言います。
あるいみそれを想定して出てきたのが統一教会です。

>今まで統一原理はデタラメだと思っていましたが、サライさんのコメントを読むとそうでもないような気もしてきました。

ありがとうございます


旧約聖書の時代は審判の神・裁きの神として登場します。
言うことを聞かない子供には体罰もありというところでしょうか。分からないやつは叩くしかない。

新約時代は愛と許しの神として登場します。

原理的に言えば、人間の心霊の基準に従って神様の現れ方は変わるということです。


>むしろお釈迦様の再臨と言った方がいいと思います。

以前天地正教では弥勒様がメシアであり、お釈迦様の再臨ではありませんが、そのような感覚でとらえていました。

文亨進様の礼拝は、4大宗教の儀式や経典の内容を取り入れて、宗教統一を本当に意識してなされています。

私は、祝福を受けたお坊さん、神主さんを知っています。イスラムの人も知っています。

原理は、高等宗教を受け入れる土壌がある証拠だと思います。


これまで問題の多かった統一教会ですが、これは発展と言うより穴埋め的、蕩減の歩みでした。これからが本番です。


文先生の自叙伝が最近出ましたが、これは韓国の有名な出版社の社長が企画して実現したものです。教会の人間ではありません。
このかたは熱心な仏教徒で毎朝仏の前に敬礼をかかさない方だと聞いています。


キリスト教についてですが
新約聖書にはパウロ書簡というものがあります。半分がそうです。
このパウロという人物が今日のキリスト教を大きく世界的にしたといわれていますが、また問題もつくりました。
俗に言われるパウロ神学が今日の統一教会の手かせ足かせになっているとみる人もいます。
福音書とパウロ書簡、時間があれば読み比べてみてください。


>神の国、神の霊とは何でしょう?「証明してください」と言いたいです。

サタンがいないのが天国、神の国です。

神・サタンは「分からない」サンウさんに言ってもしょうがありませんが、
先のコメントで書いた、自己と自我(心理学や哲学などで用語がいろいろありますが)についてですが

我々は、明らかに「見つめる自分」と「見つめられる自分」がいることに気づきます。分離しています。

これは、統一された心の基準ではありません。
原理では本心の主体が神であり、これと分離したのが堕落の結果であると見ます。

矛盾しない、内省する必要のない姿が統一された本然の人間と見ます。
良心の呵責、自分の言動の是非を感じ考える必要の無い姿が完成人間だと思います。

我々の信仰生活はこのような分離しない自分をいかに継続するかの戦いです。ボーとしていると、すぐに呵責を産む言動、考えをしてしまいます。
たぶん、お釈迦様の言われる解脱の境地と同じではないかと推測します。

サタン(悪霊)は条件さえあれば、簡単に我々人間に出入りします。この条件の根本である原罪を取り除くことが祝福の大きな価値の一つです。

Re: 妄信と通常の信仰の境は? - チェ・サンウ

2011/02/17 (Thu) 00:36:16

サライさん

>原理はイエスをメシアとし、その再降臨が文先生とします。
ですから、キリスト教を背景としないといけない事情が歴史的にありました。本来クリスチャンを基盤として再臨主は立つべきでした、そうであれば原理講論も統一教会もいらなかったのです。
二次的三次的発展の結果です。

でも、イエス・キリストは自分と意見の異なる者を、蛇・蝮の子扱いです。それに証明されてないのに、神の国とか霊とか妄言者です。多分、統一協会がキリスト教を背景としなければならない時代は終わったのだと思います。

統一原理がデタラメだと言われてたのも、キリスト教を背景としなければならなかったからだと思います。キリスト教はデタラメです。これからは仏教の時代だと思います。文亨進氏が「統一協会はキリスト教ではない。仏教だ。」と言ったのは、これから仏教の時代に入るからなのではないでしょうか?

>熱心なクリスチャンや牧師などはデタラメと言います。
あるいみそれを想定して出てきたのが統一教会です。

キリスト教の方こそデタラメです。殺人を肯定する旧約聖書や妄言のオンパレードの新約聖書然りです。佐倉さんが聖書がいかにデタラメかを分析しています。

http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/index.html

旧約聖書の創世記もデタラメです。旧約聖書の言葉です。

「初めに、神は天地を創造された。..... 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの 種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。.....
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空 の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、動きめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は 言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。.....神はこれを見て良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかた どって人を創造された。男と女に創造された。.....
神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記 1:1-23)

ここでは、動物が造られた後に、人間が造られています。

「ヤーウェ神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。 ヤーウェ神が 地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出 て、土の面をすべて潤した。 ヤーウェ神は土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこ うして生きる者となった。 ヤーウェ神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれ た。 ヤーウェ神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ、 また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。..... ヤーウェ神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。..... ヤーウェ神は言われた。「人が独りでいる のは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」ヤーウェ神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形造 り、人のところへもって来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物 の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけ ることができなかった。ヤーウェ神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、肋骨の一部を 抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取った肋骨で女を造り上げられた。」( 創世記 2:4b-22a)

人間が造られた後に動物が造られています。創造の順番が入れ替わっています。こんなデタラメは、一般の統一信者が理解している統一原理でも無いと思います。

さらに旧約聖書の妄想です。

「あなたがたの食べることができる獣は次のとおりである。すなわち牛、羊、やぎ、雄じか、かもしか、こじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊など、獣のうち、すべて、ひずめの分れたもの、ひずめが二つに切れたもので、反芻するものは食べることができる。ただし、反芻するものと、ひずめの分れたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、野うさぎ、および岩だぬき、これらは反芻するけれども、ひずめが分れていないから汚れたものである。

何を基準に汚れた動物、汚れていない動物と分けているのでしょう?どうして、ひずめの有無が汚れているかどうかに関係してくるのでしょう?

「豚、これは、ひずめが分れているけれども、反芻しないから、汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。水の中にいるすべての物のうち、次のものは食べることができる。すなわち、すべて、ひれと、うろこのあるものは、食べることができる。すべて、ひれと、うろこのないものは、食べてはならない。これは汚れたものである。すべて清い鳥は食べることができる。ただし、次のものは食べてはならない。すなわち、はげわし、ひげはげわし、みさご、黒とび、はやぶさ、とびの類。各種のからすの類。だちょう、夜たか、かもめ、たかの類。ふくろう、みみずく、むらさきばん、ペリカン、はげたか、う、こうのとり、さぎの類。やつがしら、こうもり。またすべて羽があって這うものは汚れたものである。それを食べてはならない。すべて翼のある清いものは食べることができる。すべて自然に死んだものは食べてはならない。町の内におる寄留の他国人に、それを与えて食べさせることができる。またそれを外国人に売ってもよい。あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」

反芻の有無は汚れているかどうかというよりも、繁殖するから反芻する動物は食べても食料に困らないし、反芻しない動物は繁殖しないから食べると絶滅するかもしれません。結局、食べて良い動物、食べてはいけない動物は、食料とした時の人間の都合によって決まっているような気もします。そもそも、動物の立場に立てば食べられること自体たまったものではありません。動物にとっては、反芻する、ひづめが分かれているは関係ありません。

仏教はすべての生命を平等と説きます。何もひづめが分かれているから汚れているとか、反芻するから食べても良いとは言いません。反芻してもしなくても、ひづめが分かれていてもいなくても、動物を食べること自体罪と説きます。

でも、我々は動物の生命を食べて生きています。仏教は食べるなと言うのではなく、そのことを自覚しなさいと言っています。すべての生命を平等に見ることが平和につながると思います。キリスト教は人間がすべての生命で一番偉く、人間の自己満足です。

統一原理がキリスト教ののデタラメを補ったとしても、今までの信者のコメントを読んでいるとやっぱり統一原理もデタラメと結論付けたくなります。でも、サライさんとENOCKさんが信じる統一原理はデタラメではないと思います。

>旧約聖書の時代は審判の神・裁きの神として登場します。
言うことを聞かない子供には体罰もありというところでしょうか。分からないやつは叩くしかない。

僕には旧約聖書の神様は、ユダヤ民族に反発する者に罰を与えているだけのような気もします。

>新約時代は愛と許しの神として登場します。
原理的に言えば、人間の心霊の基準に従って神様の現れ方は変わるということです。

ちょっと新約の神様の事は分かりませんが、万能なはずの神様なのに、人間の神霊のレベルに合わせてしか出現できないなんて万能が笑わせます。でも、サライさんが信じる神様は、こんな間抜けな神様ではありません。

>以前天地正教では弥勒様がメシアであり、お釈迦様の再臨ではありませんが、そのような感覚でとらえていました。

天地正教はサライさんが信じる統一原理を説いていたかもしれません。サライさんとENOCKさんが信じる文鮮明氏は、お釈迦様の再臨です。

>文亨進様の礼拝は、4大宗教の儀式や経典の内容を取り入れて、宗教統一を本当に意識してなされています。
私は、祝福を受けたお坊さん、神主さんを知っています。イスラムの人も知っています。
原理は、高等宗教を受け入れる土壌がある証拠だと思います。

そうですね。今までの信者との議論からでは、「統一原理はデタラメだから高等どころか下等な宗教を受け入れる土壌さえない」と言いたいところですが、サライさんが信じる統一原理ならそのような土壌があると思います。

>これまで問題の多かった統一教会ですが、これは発展と言うより穴埋め的、蕩減の歩みでした。これからが本番です。

そうですね。統一原理にはいろいろな制約があるから僕は信じたくありませんが、サライさんのコメントを読めば統一協会は健全化できる可能性があると思えてきました。某掲示板における反対派の人のコメントです。

>私も統一教会は早く解散したほうが良いと思ってましたが、ENOCKさんやサライさんなどの意識の高い食口さんのコメントを読むと、もしかしたら統一教会は脱皮して健全化できる可能性が少しはあるのではないかと今は考えています。

僕も同感です。最初は統一原理の矛盾点を探したり、心理的に無理がある点を指摘して統一原理を批判していました。僕が統一協会に反対する点は霊感商法等の社会的問題を起こす点です。この点はサライさんもそうですよね。

これまで、反対派は統一原理を否定することに焦点を当ていました。某反対牧師も、統一原理の否定をしたり、文鮮明氏の嘘暴きに精を出しています。ENOCKさんのこのコメントから、文鮮明氏の嘘を暴いたところで意味はないし、統一原理を否定したところで「取るに足らない」で片付けられます

http://choisangwoo.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3681463

統一協会にもサライさんやENOCKさんのような良識的な信者さんがいると分かった以上、反対派も良識的な信者さんと統一協会を良くするためにはどのようにしたらいいかを議論するべきだと思います。僕とサライさん、ENOCKさんの違いは、統一原理を信じているかいないかだけだと思っています。でも、当面は、霊感商法を無くすことが共通の目的です。

>文先生の自叙伝が最近出ましたが、これは韓国の有名な出版社の社長が企画して実現したものです。教会の人間ではありません。
このかたは熱心な仏教徒で毎朝仏の前に敬礼をかかさない方だと聞いています。

やっぱり、統一原理は仏教だと思います。

>キリスト教についてですが
新約聖書にはパウロ書簡というものがあります。半分がそうです。
このパウロという人物が今日のキリスト教を大きく世界的にしたといわれていますが、また問題もつくりました。
俗に言われるパウロ神学が今日の統一教会の手かせ足かせになっているとみる人もいます。

統一協会を健全化するには、統一原理に初期仏教をアレンジすることが建設的だと思います。

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