宗教は世界に平和をもたらすか?

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昔の日記より - チェ・サンウ

2011/01/26 (Wed) 22:36:24

元々書き込んでいた掲示板における僕が議論していた信者さんのコメントです。タイトルもその掲示板そのままにしました。このサイトのテーマにも関連するので、掲載します。統一協会に賛同しようが反対しようが重要なコメントだと思います。このコメントには、この掲示板で議論するのにふさわしいテーマが込められているような気もします。

http://kitagamitetsu.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3350955

●ここから
長文になりますが、引越し荷物を整理していて昔の日記をみつけました。
ENOCKが学生時代、教会に入った初期の頃の日記で懐かしく読み返しました。一部注釈を入れていますがほぼそのままアップします。
その頃感じていたENOCKの考えはその当時から今に至るまで変わっていません。ただ、私にもっと甲斐性があればと不甲斐ない自分にもどかしさを感じることは多かったです。


以下本文-----

原理が真理であるかどうか。それを問う以前に、原理とは何を指すのか。何がいわゆる原理なのか?・・・
自分がこの道を前向きに考え始めた理由は、紹介された理論の全てが真理だと思ったからではない。神は本当にここで言っているような二世性相の神なのか。神の創造の目的は?人間始祖の堕落の経路は?霊界は?どれも確かめるすべがない。ただ確実にいえるのは、お父様の思想と生き様が素晴らしく美しいということ。例えそれが作り話だったとしても、そのような生き方をしてみたい。そのような愛の器を持ってみたいと思ったことだった。このように生きられるならそうありたい。そうなりたい。神を知ることによってそうなれるのであれば神に出会いたい。そんな思いがこみ上げた。
6日セミナーに参加した時点では強がって聞いていた。原理研に負けるもんか。統一原理なんて言っているが大したことはない。どこかで必ずぼろが出る。そう思いながら、あら捜しのために真剣に講義を聞いたし、つとめて人格者ぶってふるまった。現代の摂理歴史の講義でビデオを見た。祝福や姉妹血縁の様子だった。その時、文鮮明という人物はすごいんじゃないかと思うようになった。世界平和を願う人間は多いが、そのための具体的な方策と資源を持っている人は少ない。その中でこの人が示す理想世界、世界平和へのビジョンは、真の愛であり、犠牲的愛であり、そして家族的な関係で世界をひとつにするというものであった。法学部で、それなりに政治にも関心があり、世界で起こる紛争、戦争の根本的解決の方策を誰も提示し得ないことはわかっていた。武器をなくすだけでは争いはなくならない。人の心の中にある憎みあう心が解かれなくては、人々はたとえ武器を取り上げたとしても素手でも殺しあうことだろう。愛と許しと犠牲の精神をもって、歴史的に積もった複雑に絡み合う恨みの因縁を一つ一つほぐすように解いていく。そしてまた男女の愛の本来のあり方、そこに形作られる理想家庭。ああ、この人は本気で世界を変えようとしているのだと感じた時、我知らず涙が溢れ出て来た。それと同時にこみ上げてきたのは原研に対する裁きの思いだった。この人たちはいったい何をやっているのだ。どうしてこれを世に明かしていかないのか。自分たちがどういう方の名を背負っていると思っているのか。創始者の意識とずれてしまっているのではないか。そのような思いから、彼らといっしょにやっていく気にはなれなかった。自分はこの人たちとは一線を画し、別の形でこの運動に携わろう、そう思った。

そんな自分が原研に入り、教会員になったのはひとえに霊の親(伝道者)からの投入だった。
自分自身の体験を踏まえて確信を持って言えることは、愛を受ければ人は変わるということ。愛されてうれしくない人はいないし、自分に良くしてくれる人に対して悪く扱えば必ず良心の呵責を感じる。結局愛のある人、愛が所有を決定する。誰もが、愛のある人に主管されたいと願う。人間に限らず万物も全てがそうだ。暴力や恐怖による主管、律法による主管、そこに永続的な安定はありえない。正しき愛の秩序こそが真の幸福と平和をもたらす。愛があれば対象は自ら主管されにやってくる。要はそんな真の愛がもてるかどうか。愛の力というものを、きれい事としてではなく、具体的現実として、実感としてまざまざと見せつけられ、これは真理であると確信したのだった。
 自分は天国に行くということに対して魅力を感じない。死後にどこに行くかなどどうでも良い。ただ天国を建設したい。そのために人々を感化しうる人格を備えたい。
 人は愛と真理で育つ。愛と真理に満ちた学舎(原研寮)を築き、生活圏内で兄弟姉妹たちが善なる感化を受け自然に善悪分別されていく、そのような学舎となり、原研の新たな歴史を始めたい。日本の問題は心情問題といわれる。つまるところ原研の課題がまさしく日本統一教会の抱える課題そのものである。父母が立つまでは兄弟姉妹は互いに闘わざるをえなかった。横の関係にはサタンが入った。これからは逆に理想家庭のモデルを提示し、我々自身の中にも実感として理想の家庭、兄弟姉妹関係が根付き将来理想家庭を築いていかねばならない。学舎生活は愛の訓練の場ではなく愛の実践の場になる。良いものならば、魅力あるものならば人は自然に惹きつけられてくる。時々内部の兄弟姉妹すらさえもこの道の魅力を見失う。信じ、信じさせる時代から、知り、見せる時代へ、我々がどこまでみ言の実体となることができるか。一人一人が神様父母様に誇りをもち輝くことができるか。我々の目標は入信や祝福を受けさせることではないことは明らかだ。それらは通過点に過ぎない。質の向上なしに人数の増加は見込めない。奇跡を狙うのではなく着実に財産を増し加えていかないと。我々の愛の器が問題であり、今現在の人数は問題ではない。お父様はたった一人から出発された。ただ違うことはお父様は原理を知っているが我々は本当の意味で原理をしらない。勝利できなければ我々には原理を真理だと言う資格はない。正義は勝たねばならないし、真理は実証されねばならない。
●ここまで

とりあえず、今日は掲載するまで。この掲示板を訪れる人も議論するのにふさわしいテーマがあったら提案してください。

元々書き込んでいた掲示板では統一協会に反対する人の中で、僕の他にこの信者さんを評価する人がいました。僕にこのようなサイトを開設しようと決心させた信者さんもこの信者さんと同じ良識のある人でした。この信者さんたちとはまた議論したいけど、具体的なテーマが決まっていません。
とりあえず、元々書き込んでいた掲示板で議論の続きをやってます。

僕は統一協会に反対する立場になりますが、この掲示板では統一協会の教義を否定するなら、それよりも説得力のある教え・考え方を示すことをルールとします。

Re: 昔の日記より - サライ

2011/01/26 (Wed) 23:38:44

テーマですが

良識ある信仰生活と妄信の境目はなんでしょうか?

というのはいかがでしょうか?

基本的に宗教は、布教とか伝道とかという行為がつき物です。
その方法論で統一教会も問題が山積みになっています。
しかし伝道をしないわけにはいかない
神や真理に触れた喜びは、回りに繁殖せざるをえない気持ちに満たされます。これは病気が治ったとか、願いが叶ったとか言うレベルでもいいと思いますが。

「エホバの証人」はそのものズバリのネーミングですね、イエス様を受け入れなければ地獄に行く人を何とか救ってあげたいと言う純粋な気持ちで、ドアtoドアで訪問している。

かたやイスラム過激派は爆弾抱えて飛び込んでいって英雄になること誇りと考える。
この人たちは妄信なのだろうか?

仏教系でいえば創価学会は積極的ですが、浄土真宗の坊さんがどのように布教しているのかまったく知りませんが、檀家があって、寺の立替などに多額の寄付の要請がきます。仏教のことなどほとんど知らないが、寺とのかかわりは大事にしたいと思っている。これで信者といえるのか?

等等

いかがでしょうか?






Re: 昔の日記より - チェ・サンウ

2011/01/27 (Thu) 22:39:04

サライさん

コメントありがとうございます。

>良識ある信仰生活と妄信の境目はなんでしょうか?

O.Kです。でも、僕は信仰生活をしたことが無いので、サライさん、リードしてください。初期仏教、初期仏教と言っていますが、初期仏教は信仰するものではありません。だから、信仰生活のことは分かりません。でも、初期仏教的に事実を客観的に観察すれば、良識ある信仰生活と盲信の境目が見えてくると思います。

>神や真理に触れた喜びは、回りに繁殖せざるをえない気持ちに満たされます。これは病気が治ったとか、願いが叶ったとか言うレベルでもいいと思いますが。

でも、神や真理とは主観なので必ずしも全員が受け入れるとは限りません。お釈迦様の教えは客観的な事実に基づいていますが、お釈迦様の教えを受け入れるかどうかは、その人の好みで最終的には主観になると思います。

>「エホバの証人」はそのものズバリのネーミングですね、イエス様を受け入れなければ地獄に行く人を何とか救ってあげたいと言う純粋な気持ちで、ドアtoドアで訪問している。

でも、有難迷惑ですね。イエス・キリストを受け入れないと地獄へ行くなんて証明不可能で信じるか信じないかの問題です。自分が主観で思うことを他人にも当てはめるから信仰の問題ですね。

>仏教系でいえば創価学会は積極的ですが、浄土真宗の坊さんがどのように布教しているのかまったく知りませんが、檀家があって、寺の立替などに多額の寄付の要請がきます。仏教のことなどほとんど知らないが、寺とのかかわりは大事にしたいと思っている。これで信者といえるのか?

浄土真宗というか伝統的な仏教の宗派は檀家はあるけど、それほど積極的に布教はしてないと思います。宗教は門を叩く人にだけ開かれればいいと、つまり、人に勧めないで求める人にだけ布教すればいいと町田宗鳳著「人類は宗教に勝てるか」に書いてありました。

http://fanblogs.jp/wintersonata/archive/14/0

実家のお寺との関わりは、僕もサライさんと同じです。

Re: 昔の日記より - サライ

2011/01/29 (Sat) 00:14:32

チェ・サンウさん

>求める人にだけ布教すればいいと

これは、とても矛盾した言葉で、
求める人以前に、宗教の存在をPRしないと、または、誰かが救われた喜び、病気が治った嬉しさを回りに話さない限り広まらないでわけですね。

霊媒体質の人がいるだけで、もうそれは一つの教団と化すという事実を我々はよく知っています。

基本的に人間が持つ「苦」からの解放を我々人間は、多かれ少なかれ根本的願望(欲望)として持っているので、「なんとかしてほしい」というニーズが常に存在します。

このような事柄に答えを出していこうと言うのが宗教だと思います。

原理では霊的無知といいますが、これは客観的事実として認めますか?

Re: 昔の日記より - チェ・サンウ

2011/01/29 (Sat) 21:52:00

サライさん

>>求める人にだけ布教すればいいと
>これは、とても矛盾した言葉で、
求める人以前に、宗教の存在をPRしないと、または、誰かが救われた喜び、病気が治った嬉しさを回りに話さない限り広まらないでわけですね。

「求める人にだけ布教」とは、一々、駅前や大学で人に声をかけて布教するのではなく、事前に宗教の存在、救われた喜び等を情報メディアを通してPRしておくと言う意味です。情報メディアは昔ならポスターがありましたが、今はインターネットがあります。僕たちが書き込んでいた某サイトの管理人さんの意図も事前にPRすることにあったと思います。

情報メディアを通して、宗教を知って求めてくる人にだけ布教すればいいと思います。

>基本的に人間が持つ「苦」からの解放を我々人間は、多かれ少なかれ根本的願望(欲望)として持っているので、「なんとかしてほしい」というニーズが常に存在します。
このような事柄に答えを出していこうと言うのが宗教だと思います。

もちろん我々は苦からの解放を望んでいます。仏教は心の持ち方で苦から解放されると説いています。

この世は無常です。常に身の回りは変化をしています。そして、我々は自分にとって都合の良い変化を望みます。でも、都合の良い変化ばかりではありません。都合の悪い変化をした時に苦しむのです。

統一協会の祝福結婚を例にとってみると、誰もが苦から解放されたくて祝福結婚をするのだと思います。祝福結婚前と後では変化があります。祝福結婚後に自分の都合の良い方向に状況が変化すれば幸福だし、都合の悪い方向に変化すれば不幸です。

この世は無常で人間は常に自分にとって都合の良い変化を望む。でも、都合の悪い方向へ変化することの方が多くこれで苦しんでいます。祝福結婚でも、このことを知っているか知らないかだけで、いざ不幸に見舞われても違うと思います。

やっぱり初期仏教の無常を学んでおくことは、信じてる宗教関係なしに良いことです。僕は初期仏教は誰かに勧められたわけではなく、たまたまbook-offで初期仏教の本を見つけました。統一原理も布教をするのなら、駅前や大学内で正体を隠して布教するのではなく、インターネットや本を執筆して情報メディアを活用すれば求める人が来るかもしれません。

>原理では霊的無知といいますが、これは客観的事実として認めますか?

霊的無知は「分からない」という立場を取りますが、我々が無知であることは事実です。無知であることについては客観的事実として認めますが、それが霊的かどうかについては客観性がありません。だから、「分らない」です。

Re: 昔の日記より - サライ

2011/01/31 (Mon) 06:18:38

チェ・サンウさん

>統一協会の祝福結婚を例にとってみると、誰もが苦から解放されたくて祝福結婚をするのだと思います。祝福結婚前と後では変化があります。祝福結婚後に自分の都合の良い方向に状況が変化すれば幸福だし、都合の悪い方向に変化すれば不幸です。


これは経験上、事実とかなり違います。

祝福結婚は自分の苦の解放を動機として受けるのではありません。少なくとも私はそうでした。
 見ず知らずのお世辞にも、きれいな人とは言えない人、好みとはかけ離れた人と、結婚式当日に会って結婚するなど「苦」以外にありえません。
 祝福結婚の動機は「神と人類のため」という動機にまで情が成長できなければ受け入れることはできないと思います。
(そうでない人に無理に勧めた、若しくは推薦の判断が甘かった場合、問題が露呈することが多いと思います)

結局、めぐりめぐって、自分の解放のためだったと後で悟るもの(私は10年ぐらいかかりました^^;)です、最初ではありません。


>インターネットや本を執筆して情報メディアを活用すれば求める人が来るかもしれません。

人間の行動のとっかかりは、知識や、知ることだと思いますが、決断を左右するのは「情」の部分がとても大きいと思います。
このHPの開設の動機に「データは理論を越えられない・・」というコメントを引用してもらっていますが、「情」は理論を簡単に越えてしまうのです。
  好き、嬉しい、感激
ある意味、芸術の分野にみる、「見えないの波動」のようなものがとても重要だと考えます。

チェ・サンウさんはキリスト教の礼拝に参加したことはありますか?賛美歌や祈祷など・・霊的要素をとても重要視します、統一教会はまだ新しいのでその要素はキリスト教に倣うところが大きいです。私はその雰囲気がとても好きです。

私が入信する決断を決定的にしたのは礼拝の時の聖霊体験でした。理屈が分かったからではありません。


そういう意味でも正体を隠す布教は間違いで、これまでの日本のやり方は世界中にある他の統一教会から見ると特殊です。
この辺は、かんごさんのサイトが今後解明してくれるでしょうけど・・。


霊的とは、見えない神・霊界・魂とか言うものの存在といういみです。

「分からない」というのは、分かる部分もゼロではなく、数パーセントでも分かる部分があって使う言葉だと思いますがどうですか?全否定ではない・・

Re: 昔の日記より - チェ・サンウ

2011/02/02 (Wed) 22:45:39

サライさん

>>統一協会の祝福結婚を例にとってみると、誰もが苦から解放されたくて祝福結婚をするのだと思います。祝福結婚前と後では変化があります。祝福結婚後に自分の都合の良い方向に状況が変化すれば幸福だし、都合の悪い方向に変化すれば不幸です。
>これは経験上、事実とかなり違います。
>祝福結婚は自分の苦の解放を動機として受けるのではありません。少なくとも私はそうでした。
 見ず知らずのお世辞にも、きれいな人とは言えない人、好みとはかけ離れた人と、結婚式当日に会って結婚するなど「苦」以外にありえません。
 祝福結婚の動機は「神と人類のため」という動機にまで情が成長できなければ受け入れることはできないと思います。
(そうでない人に無理に勧めた、若しくは推薦の判断が甘かった場合、問題が露呈することが多いと思います)
>結局、めぐりめぐって、自分の解放のためだったと後で悟るもの(私は10年ぐらいかかりました^^;)です、最初ではありません。

神様と人類の為とは突き詰めれば苦からの解放になると思います。悟るのに何年かかろうがいずれ解放されると意識しないとできないことだと思います。

>人間の行動のとっかかりは、知識や、知ることだと思いますが、決断を左右するのは「情」の部分がとても大きいと思います。
このHPの開設の動機に「データは理論を越えられない・・」というコメントを引用してもらっていますが、「情」は理論を簡単に越えてしまうのです。
  好き、嬉しい、感激
ある意味、芸術の分野にみる、「見えないの波動」のようなものがとても重要だと考えます。

サライさんの言う通りです。情は理論を簡単に越えます。でも、情とは主観です。主観なので人によっては異なります。異なる主観同士がぶつかるから争うのです。いくら理論が立派でも、人間は主観に固執する生き物なので、サライさんの言う通り、理論を簡単に越えて争いが起きます。芸術などはコンテストがない限り争うことはありませんが、芸術の争いは安全だと思います。

>チェ・サンウさんはキリスト教の礼拝に参加したことはありますか?賛美歌や祈祷など・・霊的要素をとても重要視します、統一教会はまだ新しいのでその要素はキリスト教に倣うところが大きいです。私はその雰囲気がとても好きです。

一応ありますが、どうもなじめません。それに、以下の言葉は旧約聖書の言葉ですね。キリスト教のことはよく分かりませんが。

>あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。 (申命記7章1~2節)

アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人にとっては残虐な神様です。彼らはこんな神様はいらないと言うと思います。

>ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。 (申命記20章10~17節)

男は殺して女は自由にできるなんて、ユダヤ民族の男にとっては都合のいい神様ですね。

>七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金、銀、銅器、鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民はときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした。 (ヨシュア記6章16~21節)

「摂理の為の殺人は善」ってどこかで聞いたことがありますね。そもそもこの発想は原理講論以前に旧約聖書から来ていると思います。

>主はヨシュアに言われた。「おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す。(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。(ヨシュア記8章1~26節)

アイの人たちにとって自分たちを殺せと命じる神様は残酷な神様です。

>ヨシュアは命じた。「洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ。」彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対しては主はこのようになさるのである。」ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた。 (ヨシュア記10章22~26節)

敵の首を踏みつける神様です。

>ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣を持って町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。(中略)主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、二日目には占領し、剣を持って町の住民を全て撃ち、リブナと全く同じようにした。(中略)ヨシュアは全イスラエルを率いてラキシュから更にエグロンへ向かい、陣を敷いてこれと戦い、その日のうちに占領し、剣を持って町を撃ち、全住民をその日のうちに滅ぼし尽くし、ラキシュと同じようにした。(中略)ヨシュアはさらに、全イスラエルを率いてエグロンからヘブロンへ上り、これと戦って、占領し、剣をもって王と町全体を撃ち、全住民を一人も残さず、エグロンと同じようにした。かれはその町とその全住民を滅ぼし尽くした。(中略)ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息のある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。(中略)ヨシュアがただの一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕えることが出来たのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。(中略)これらの町々のぶんどり品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは何一つなかった。 (ヨシュア記10章29節~11章15節)

エホバの証人のおっちゃんが勧誘に来た時に、これらのことを指摘したら、400年前にユダヤ民族が住んでいた土地だから、取り返すのは当然だそうです。これに対して隣の家の土地に自分の先祖が400年前に住んでいたから返せと言うのはおかしいと指摘しました。

さらに、イエス・キリストは、「信じる者は救われる」と言ったそうですね。「救われる」の意味が曖昧だけど、信じない人はどうなるのか聞きたいです。イエス・キリストがメシヤかメシヤでないかは実証できません。それに対して仏教の転生輪廻も実証できません。でも、お釈迦様は転生輪廻を信じない人も救われるように説きました。アルボムッレ・スマナサーラ著「死後はどうなるの」に書いてあるし、僕も転生輪廻は信じていません。でも、仏教を分かってないなりに語ることができます。このことから転生輪廻を信じる必要はないと考えています。

ここで、信じなければ救われないキリスト教と信じなくても救われる初期仏教と、どちらが建設的でしょうか?

別スレでサライさんが提案したテーマに関わりますが、キリスト教の礼拝は盲信者の集まりのような感じがしました。

>私が入信する決断を決定的にしたのは礼拝の時の聖霊体験でした。理屈が分かったからではありません。

真理だと感じたからですよね。10人いて、10人が10人、理屈を超えて別のことを真理と感じて「私の真理が正義だ!」、「オレの真理が正義だ!」ということになったら争いが起きます。このことはキリスト教の歴史が示しています。十字軍遠征はその典型ですね。魔女狩りもキリスト教が起こした問題ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A

歴史的に見てキリスト教が起こした被害に比べたら、霊感商法等の統一協会による被害はかわいいものです。それこそあの掲示板の流行りの言葉を使うと取るに足りません。でも、統一協会の被害が取るに足らないくらいだから歴史的に見たキリスト教の被害は相当なものです。

他人にとっても統一原理が真理と感じられるかは分かりませんが、サライさんが真理と感じたことは事実です。真理と感じるかどうかは主観で仏教では主観は危険と教えています。

でも、だからと言って仏教は信じることを辞めろと言っているのではなく、信じている時に「これは主観なんだな」と気付くだけでいいです。気付きが大事です。

サライさんの場合は、統一原理を真理と感じた。だから、このことの良し悪しはおいといて、ただ統一原理を真理と信じている自分を認識するのです。ありのまま、そのままです。

かんごさん(他掲示板の人の名前は出してもいいのかなあ?公安さんも元食口○○って表現してるし。ネット上のマナーはよく分かんないです。そのうち書き込んでくると思うから、出してもいいですね。ENOCKさんも)の仏教理解とは違っていますが、僕は「無常、事実を客観的、ありのままに観察せよ」が仏教の根幹と考えています。だから、統一原理を真理と感じている自分を客観的にありのままに観察することが、統一原理に初期仏教をアレンジすることだと思います。

>そういう意味でも正体を隠す布教は間違いで、これまでの日本のやり方は世界中にある他の統一教会から見ると特殊です。
この辺は、かんごさんのサイトが今後解明してくれるでしょうけど・・。

そうですね。教えに自信があれば正体を隠す必要はありません。本当に真理と感じさせられる教えだったら、ネットなどを通じて伝わるはずです。僕は転生輪廻は信じていませんが、初期仏教が真理と感じたのは古本屋にあった本を読んでです。

>霊的とは、見えない神・霊界・魂とか言うものの存在といういみです。

見えない神、霊、魂の存在は信じるか信じないかの問題です。でも、神、霊、魂が存在しようがしなかろうが、何らかの現象として現れます。これをここでいう霊的とします。原因が神だろうが霊界だろうが、人の身に何かが起きていることは事実です。身に起きていることをありのままに観察することは統一原理に初期仏教をアレンジすることになると思います。

>「分からない」というのは、分かる部分もゼロではなく、数パーセントでも分かる部分があって使う言葉だと思いますがどうですか?全否定ではない・・

こう言われると漠然と「分からない」と言う言葉を使っていました。でも、僕の解釈とサライさんの解釈では異なっているように思います。サライさんの「分らない」はある1つの対象を細かく分けて1つでも分る部分がある場合を「分らない」としているように思います。

僕の場合はそこまで考えていませんでしたが、例えば神様についてはいろいろな説があっても結局どれも実証できないから「分からない」になると思います。

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